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■ 見どころ:国指定の文化財

写真:世界遺産勝連城跡 写真:伊波貝塚 写真:安慶名城跡 写真:仲原遺跡
1世界遺産勝連城跡 2伊波貝塚 3安慶名城跡 4仲原遺跡

1勝連城跡(史跡)
指定年月曰:昭和47年5月15日勝連城跡は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利の居城として有名です。
 若くして勝連の按司となった阿麻和利(あまわり)は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力を付けました。時の琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、阿麻和利に驚異を持ち、自分の娘.百十踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。しかし、阿麻和利は国王の重臣で中城城の護佐丸(ごさまる)を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざして首里城を攻めたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅ぼされたことによって、首里を中心とする中山の王権は一段と安定しました。阿麻和利や勝連城跡について、沖縄の古謡をまとめた「おもろさうし」には当時の繁栄ぶりを謡ったものがたくさん収められています。それを裏付けるように、勝連城跡からは中国製やその他東南アジアの陶磁器などが多量に出土しています。城は、四方に眺望のきく比較的傾斜の急な孤立丘を取り込んで築かれており、外敵をいち早く確認できることや、南側に良港を控えていることなど、極めて良好な立地をそなえています。

2伊波貝塚(史跡)
指定年月曰:昭和47年5月15曰明治37年(1904)に来沖した鳥居龍蔵氏(とりいりゅうぞう)は石川のチヌヒンチヤ貝塚を発見し、その調査内容を翌年「考古界」や『太陽』で発表している。大正9年 鳥居氏の報告をたよりに石川を訪れた大山柏氏(おおやまかしわ)によって発見されたのが伊波貝塚である。石川市街地の南側の丘陵崖下に位置する二つの貝塚は、沖縄諸島の中では早い時期に実態が明らかにされた遺跡として著名である。伊波貝塚から出土した山形の口縁部に 4個の突起をもつ平底の深鉢形(ふかばちがた)をした土器は、伊波式土器と称され、縄文後期( BC 3500年)を代表する標識土器として知られている。

3安慶名城跡(史跡)
指定年月曰:I?昭和47年5月15日 安慶名に在する国指定の史跡である。城の北側を流れる天願川が別名「大川」と呼ぶことから、別名大川グスクとも称される。伝承では14世紀頃安慶名大川按司の築城と云われている。自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城である。城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす県内では珍しい輪郭式のグスクである。安慶名城跡の築城時期については、本格的な発掘調査を行っていないので詳細は不明だが、県内におけるグスクの発掘調査をした例を見ると12世紀後半から13世紀初頭にかけてグスク時代の開始が認められているため、安慶名城跡も、その頃で、15世紀頃に現在の石垣が造られたのではないかと思われる。安慶名城跡の第3代目のころになると、中山王は尚真王の時代で、各地の按司を首里に集め中央集権国家を造ろうとしていたが、安慶名按司の勢力は具志川、あるいは中部一帯に広がっており、首里に呼び寄せようとしても聞き入れなかった。それで、仕方なく中山軍は安慶名城を攻めることにしたが、勢力のある安慶名城であるため、なかなか落城させることが難しかった。そこで、調べてみるとこの城には水がないことがわかったので水攻めにすることにした。しかし、安慶名城も考えたもので、米でウマを浴びせて見せ、遠くから見ると水浴びをさせているように見せていた。中山軍はあきらめたが、結局水がないことがわかって安慶名城は落城する結果となった。


4仲原遺跡(史跡)
指定年月曰:昭和61年8月16日遺跡は、伊計島の中央からやや西によったところに位置し、沖縄貝塚時代中期(2,400 〜 2,500年前)の集落跡(ムラあと)。発見された遺構は11基で石囲いの堅穴住居跡。規模は2〜3m、4〜5メートルで約1〜2坪の長方形でまとまった集落がきわめて保存のよい状態で東西にかけてやや一直線に整然と並んでいる。遣物は土器、石斧、磨石、凹石、骨製品、貝製品、が出土している。また、人骨も5体出土しており当時埋葬習俗、ものの者え方を知る手掛けの貴重な資料となる。


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