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更新日:2023年12月7日

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目次

 

国指定の文化財

私たちの祖先が長い歴史の中で育て、伝えてきた文化遺産。

うるま市には、琉球の開闢神話にまつわる史跡から、数千年前の住居跡、グスク時代、琉球王朝時代、そして近代にいたるまでの史跡・遺跡が数多く残っています。

うるま市ではこれらの史跡・遺跡を歴史・文化遺産として大切に守り、その価値を後世に伝えていきます。

勝連城跡

1972(昭和47)年5月15日指定

勝連城跡

勝連城跡は、琉球王国が安定していく過程で、国王に最後まで抵抗した有力按司、阿麻和利(あまわり)の居城として有名です。

若くして勝連の按司となった阿麻和利は、人々から慕われ、海外貿易によってますます力をつけました。その時の琉球国王・尚泰久(しょうたいきゅう)は、阿麻和利に恐れをいだき、自分の娘、百度踏揚(ももとふみあがり)を嫁がせます。しかし、阿麻和利は国王の重臣で中城城の護佐丸(ごさまる)を1458年に滅ぼし、さらに王権奪取をめざして首里城を攻めましたが、大敗して滅びました。阿麻和利が滅びたことによって、首里を中心とする中山の王権は一段と安定しました。

阿麻和利や勝連城について、沖縄の古謡をまとめた『おもろさうし』には当時の繁栄ぶりを謡ったものがたくさん収められています。それを裏付けるように、勝連城跡からは中国やその他東南アジア製の陶磁器などが多く出土しています。城は、四方に眺望のきく比較的傾斜の急な孤立丘を取り込んで築かれており、外敵をいち早く確認できることや、南側に良港があるなど、極めて良好な立地をそなえています。

安慶名城跡

1972(昭和47)年5月15日指定

安慶名城跡

城の北側を流れる天願川を別名「大川」とも呼ぶことから、「大川グスク」とも称されています。

伝承では14世紀頃、安慶名大川按司の築城といわれており、自然の断崖と急傾斜を巧みに利用した山城です。城の形態は、外側と内側に二重の石垣を巡らす県内では珍しい輪郭式のグスクです。

築城時期については、本格的な発掘調査が行われていないため詳細は不明ですが、県内における発掘調査報告をみますと12世紀後半から13世紀初頭にかけてグスク時代の開始が認められています。そのことから、安慶名城もその頃築城され、15世紀頃に現在の石垣が造られたのではないかと思われます。

安慶名城の3代目の頃になると、中山王(ちゅうざんおう)は尚真王(しょうしんおう)の時代で、各地の按司を首里に集め、中央集権国家を造ろうとしていましたが、安慶名按司の勢力は具志川、あるいは中部一帯に広がっており、首里に呼び寄せようとしても聞き入れませんでした。中山軍は、仕方なく安慶名城を攻めることにしましたが、勢力のある安慶名城でしたので、なかなか落城させることが難しかったようです。そこで、調べてみるとこの城には水がないことがわかったので、水攻めすることにしました。しかし安慶名按司も考えたもので、米で馬を浴びせ、遠くから見ると水浴びをさせているように見せかけたのです。中山軍はあきらめましたが結局水がないことがわかり、安慶名城は落城する結果となりました。

伊波貝塚

1972(昭和47)年5月15日指定

伊波貝塚

1904(明治37)年に来沖した鳥居龍蔵氏(とりいりゅうぞう)は石川集落のチヌヒンチヤ貝塚を発見し、その調査内容を翌年『考古界』や『太陽』に発表しました。1920(大正9)年、鳥居氏の報告をたよりに石川集落を訪れた大山柏氏(おおやまかしわ)によって発見されたのが伊波貝塚です。

伊波城跡の南東約350mの丘陵崖下に位置するこの2つの貝塚は、沖縄諸島の中では早い時期に実態が明らかにされた遺跡として知られています。

伊波貝塚から出土した山形の口縁部に4個の突起をもつ平底の深鉢形をした土器は、伊波式土器と称され、縄文時代後期(沖縄貝塚時代前期。約3500年~3000年前頃)を代表する標識土器として知られています。

仲原遺跡

1986(昭和61)年8月16日指定

仲原遺跡

仲原遺跡は、伊計島の中央からやや西寄りに位置し、縄文時代晩期(沖縄貝塚時代中期。約2500年前頃)の集落跡(ムラあと)です。

発見された遺構は11基で、石囲いの堅穴住居跡です。規模は径が5~6mの広さを持つ大型の建物と2~3mの小型の建物の2種類が発見され、大型の建物が母屋と思われます。

集落としての規模は、大型の建物の周辺に4~6棟ほどの小型の建物が母屋周辺を取り囲むように形づくられていたと考えられます。長方形でまとまった集落がきわめて保存のよい状態で東西にかけてやや一直線に整然と並んでいます。

遣物は土器、石斧、磨石、凹石、骨製品、貝製品が出土しています。人骨も5体出土しており、当時の埋葬習俗など、人々の生活様式を知る手がかりとして貴重な資料です。

国登録記念物 Cultural assets

平敷屋製糖工場跡

2015(平成27)年1月26日登録

平敷屋製糖工場跡

平敷屋製糖工場跡は、勝連平敷屋の東海岸に面する勝連半島先端の南側丘陵斜面地に位置しています。1940(昭和15)年、勝連平敷屋地域の11組の旧サーターヤー組が合併して建造された、蒸気を原動力とする共同製糖工場です。

昭和戦前期の沖縄では、甘藷圧搾に畜力を用いる伝統的な在来製糖場と、機械を用いる改良製糖場が共存していました。1928(昭和3)年以降、共同製糖場を新設する製糖組合に対して補助金が交付されるようになり、共同製糖場の設立が促進されました。そうした背景のもと、蒸気を原動力とし、共同製糖場の経営方式をとる平敷屋製糖工場が設立されました。

『平敷屋字誌』などによれば、工場建物は南向きで、その前面に3基の煙突が立ち、煙突の1つは蒸気機関(45馬力)のボイラーにつながり、燃料には石炭を使用したとされます。1944(昭和19)年10月の那覇十・十空襲以降、工場は操業できず、その後は米軍の攻撃で破壊されましたが、工場跡地には今でも煙突1基、貯水槽が現存しています。

煙突は煉瓦造で、高さが約16.3m、煙突表面には銃痕が残りますが保存状態は良好です。貯水槽はコンクリート造で、縦横約9.0m×10.5m、深さ約3mの略長方形です。近代の沖縄の製糖業の歴史と技術の展開を知るうえで、貴重な遺跡です。

お問い合わせ先

教育委員会 社会教育部文化財課

沖縄県うるま市みどり町一丁目1番1号うるま市役所 西棟3階

電話番号:098-923-7182

ファクス番号:098-923-7674

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