県指定の文化財

Cultural assets

私たちの祖先が長い歴史の中で育て、伝えてきた文化遺産。
うるま市には、琉球の開闢神話にまつわる史跡から、数千年前の住居跡、グスク時代、琉球王朝時代、
そして近代にいたるまでの史跡・遺跡が数多く残っています。
うるま市ではこれらの史跡・遺跡を歴史・文化遺産として大切に守り、その価値を後世に伝えていきます。

勝連間切南風原村文書

1977(昭和52)年7月11日指定

勝連間切南風原村文書

 1879(明治12)年の琉球処分によって沖縄県となりました。しかし、近代化への諸改革は本土よりはるかに遅れ、土地整理が完了したのは1903(明治36)年でした。それまでは王府時代の土地制度が存続し、琉球独特の地割制が実施されていました。
 勝連南風原集落には1887(明治20)年~1897(明治30)年代に作成された地割関係の文書(冊子68冊、地籍図29葉)が保存されています。なかでも1896(明治29)年の地割関係文書は、従来の土地制度関係史料にはみいだせない新史料が含まれており、地割が農村において実施された具体的な過程を知ることができます。近世・近代の沖縄の農村経済制度を知る重要な史料群です。

三線翁長開鐘

1955(昭和30)年5月23日指定

三線翁長開鐘

 ○全長76.7cm
 開鐘(けーじょう)とは、夜明け六つ時に撞く寺院の鐘のことで、遠くまでよく響きわたることを意味します。このことにちなんで、三線のうちで特によく響きわたる名器にたびたびつけられた名称です。
 この三線の型は真壁型の正型で、心は角のみ粗削りで、範の先に黒の牛角をはめ、房がつけられるように穴があいています。心の部分に「翁長開鐘」と朱塗りで銘記があります。
 第二尚氏王統17代の尚灝王(しょうこうおう)(在位1804年~1834年)が愛用した名器で、王の没後に3番目の子どもである大里王子尚惇(しょうじゅん)(朝教/ちょうきょう)に下賜され、1935(昭和10)年ごろ現在の持ち主に渡ったということです。

三線真壁型

1994(平成6)年3月15日指定

三線真壁型

 ○全長76.6cm
 琉球古典音楽の大家、幸地亀千代(1896年~1969年)が愛用し、戦前、辻町の名器のひとつとして伝えられた真壁型の三線です。
 材質はリュウキュウコクタンの赤味入りの上質材で、棹の太さは細めです。天は中絃掛の範穴の上部から反り、糸蔵が短く、面・野・爪・心の形状は典型的な真壁型の特徴を備えたバランスのとれた美しい三線です。
 明治後期に作られたと推定されますが、糸蔵内の金箔や漆の塗りは古くみえます。

平安名貝塚

1956(昭和31)年10月19日指定

平安名貝塚

 平安名集落西方約400mにある縄文時代後期(沖縄貝塚時代前期。約3500年前~3000年前頃)の貝塚です。中城湾を見下ろす標高約40mの崖の斜面に形成され、琉球石灰岩の岩間や岩陰に保存良好な遺物包含層があります。
 1955(昭和30)年に発見され、発掘調査が行われました。櫛目類似手法の文様をもつ平安名式土器をはじめ、荻堂式土器・大山式土器のほかに、石製品、骨製品、貝製品などもみつかっています。

伊波城跡

1961(昭和36)年6月15日指定

伊波城跡

 北側の断崖を除いた東、南、西側に、自然石を積み上げ(野面積み)、一重に巡らされた「コ」の字形、単廓(たんかく)式に城壁が築かれるこのグスクは、今からおよそ700年前(1300年代)伊波按司によって築城されたと伝えられています。
 城内からはグスク時代の土器や外国産陶磁器などのほかに先史時代の土器なども検出されており、このことから先史時代から人々の居住地であったことが明らかになっています。
 5代目の伊波按司(1500年代)が首里へ移転したため、廃城になったといわれ、現在は御嶽として崇められています。伊波集落のウマチーや祭祀行事などが城内で行われるほか、県内各地から参拝者や見学者が訪れています。城内には中森城之嶽(火の神)・森城之嶽・三ッ森城之嶽(ウフアガリヘの遙拝所)の3ヶ所の拝所があります。

チャーン

1991(平成3)年1月16日指定

チャーン

 チャーンとは琉球王朝時代に中国または東南アジア(2説ある)より沖縄にもたらされた鳴き声に魅力のある鶏です。中国語の唄鶏「チャンチィ」が、いつしか「チャーン」という名前になったようです。
 チャーンは別名「籠の鳥」と呼ばれていました。それは近世の琉球では、鶏は放し飼いが普通でしたが、このチャーンだけは籠で大切に飼われていたためです。「飼育係は芋を食べ、チャーンは米を食べた」といわれるほど大切にされました。昔は士族、王家など、経済的にゆとりのある人たちの愛玩鳥でした。
 その歌声だけではなく、羽色も白、黒、五色と様々あって姿も美しい鶏です。そして年に一度、梅雨明けの時期に松山御殿の庭で鶏鳴会が開かれていました。
 チャーンの鳴き声は琉球古典音楽「散山節」にたとえられ、打ち出し(ウチンザシ)、吹き上げ(フチンザシ)、声のひき止め(クゥイトメ)、しめ(チラシ)、声の長さ(クィーナギ)で歌い方の基準をもうけ観賞します。声質は三線の音色にたとえられ、ミージル(高音)、中ジル、フゥージル(低音)の3種類に分けられます。チャーンは「コケコッコー」とは鳴かずに「ケッ、ケッレェーェー、ケッ」と鳴きます。最後の「ケッ」と短く切れる声が特徴です。

津堅島の唐踊り

1978(昭和53)年3月24日指定

津堅島の唐踊り

 津堅島で旧暦8月9曰~15日に行われる「八月遊び」の中で演じられる踊りで、男たちによって踊られ、元々は「八月踊り」と称されていました。
 パーランク(小太鼓)を打ち鳴らす者、扇子をもって踊る者の両者で構成され、「大踊り」「い-そ-に」の2曲で踊ります。
 衣装は太鼓打ちがドゥジンバカマ(胴衣袴)、踊り手が芭蕉の着物を着ます。
 「唐」は、沖縄では単純に中国を意味するのではなく、「国や島の外側の地域」を意味していました。津堅島の唐踊りは、故大城蒲太氏(1986(明治19)年生まれ)の言い伝えによると、津堅親方という人物が島外から持ち帰った踊りとされ、「踊い」と称しました。
 また、唐踊りの歌詞は、薩南諸島の島々の名称があることから、この地域の八月踊りとの関わりを持つ可能性もあります。この踊りは、当時の文化交流がうかがえる貴重な芸能です。

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