ページID:2844

更新日:2023年12月7日

ここから本文です。

市指定の文化財

私たちの祖先が長い歴史の中で育て、伝えてきた文化遺産。

うるま市には、琉球の開闢神話にまつわる史跡から、数千年前の住居跡、グスク時代、琉球王朝時代、そして近代にいたるまでの史跡・遺跡が数多く残っています。
うるま市ではこれらの史跡・遺跡を歴史・文化遺産として大切に守り、その価値を後世に伝えていきます。

ワイトゥイ

ワイトゥイ
1997(平成9)年4月23日指定

ワイトゥイは、平安名集落南西部(比殿原、嘉慶奈久)の農耕地に通じる断崖を掘削した農道です。
長年、村人は比殿バンタの急崖の険阻な山道を登り降りしていましたが、この苦難を解消するために、1932(昭和7)年から1935(昭和10)年にかけてこの断崖を掘削、横断農道を開通させました。
長さ約150m、高さは最高所で20mもあります。当時のトゥングェー(金鍬)や、カニガラ(石割棒)などを駆使した人々の難工事の跡が断面に刻まれており、その苦難の歴史を知る上で重要です。
正式名称は「比殿農道」ですが、「割って取った」という意味で「ワイトゥイ」と呼ばれています。

うるま市の闘牛

うるま市の闘牛の様子の画像1 うるま市の闘牛の様子の画像2
2018(平成30)年7月13日指定

本市における闘牛の起源は明らかではありませんが、1911(明治44)年11月13日付『琉球新報』の「牛闘(うしあわせ)見物」と題する記事には、安慶名闘牛場で安慶名と川崎の字対抗大会が催され、観客2万余が集まり大いに賑わったとあり、その頃すでに闘牛大会が盛んだったことがわかります。また、『勝連町史 二』(1984年)でも、明治の頃によく催された原山勝負(ハルヤマスーブ)などで闘牛大会が行われ、畜産奨励を兼ねた農閑期の娯楽として各地へ広まったとあり、ここでも当時から多くの人々を魅了していた様子がうかがえます。
本市の闘牛は戦争の混乱で一時期途絶えたものの、戦後は再び各地で大会が行われるようになり、現在では市闘牛組合連合会のもと7つの闘牛組合と6か所の闘牛場が組織されるなど、県内の他地域に比べても突出しており、本市における闘牛の隆盛ぶりを示しているといえます。
特に県内唯一の全天候型闘牛場である石川多目的ドームでは、全島大会や準全島大会、観光闘牛などが頻繁に開催され、県内外から多くの老若男女が集い、学校においても闘牛を題材に地域学習を行うなど、闘牛は単なる娯楽にとどまらず、地域を代表する文化として脈々と継承され、広く市民に親しまれています。

宮城島のヒータチ(火立て)跡

宮城島のヒータチ(火立て)跡の画像1 宮城島のヒータチ(火立て)跡の画像2
2018(平成30)年7月13日指定

ヒータチ(火立て)とは、火を焚く高台の広場や丘、森という意味があり、本市においてはヒータチ(火立て)、ヒータチモウ(火立て毛)、ヒータチムイ(火立て森)と呼ばれています。
これは、主に中国や西洋の外国船の往来を首里王府へ伝達するため、海上交通の監視・通報機能を担う遠見番所でした。
本市は沖縄島の中部東側に位置し、ヒータチが4箇所設置されていました。外国船が見えると烽火を焚き、宮城島のヒータチから平安座島のアガリグスクへ通報、平安座島から平敷屋のヒータチムイへ、そこから喜屋武マーブのヒータチムイへと次々に各地で烽火をあげ、首里王府へ情報が伝達されていきました。
宮城島のヒータチ(火立て)跡は、高嶺遺跡内の火番小屋跡と石碑として、沖縄県による発掘調査で琉球王国時代の遺構であることがわかっています(『宮城島遺跡分布調査報告書』、1989(平成元)年)。
火番小屋には冬の北風を防ぐため北側と西側に石垣が築かれており、また、微粒砂岩の石碑がコの字状に3本立てられ、その内1本に情報伝達の方角を示す「川田崎 針崎 丑寅小間 丑方付」の碑文も確認されました。これらの遺構は、良好な状態で現存する大変貴重なものです。

藪地洞穴遺跡

藪地洞穴遺跡の画像1 藪地洞穴遺跡の画像2
2017(平成29)年3月17日指定

藪地洞穴遺跡は、勝連半島の南東側に位置する藪地島の南西側海岸に近接して立地する洞穴遺跡です。「ジャネーガマ」とも呼ばれ、信仰の対象にもなっています。
1960(昭和35)年に発掘調査が行われ、約6,500年前の爪形文土器が発見されたほか、貝殻を加工して作った鏃(やじり)などが発見されました。
爪形文土器については、沖縄県で初めて発見されたため「ヤブチ式土器」と命名され本遺跡が標識遺跡となっており、本市のみならず沖縄の先史文化を知る上で、学術的価値の高い発見となりました。
2014(平成26)~2016(平成28)年の発掘調査においても、約6,500年前の爪形文土器や石器等の道具が同じ層でまとまって出土しました。また洞穴奥部の調査区からは、土器や貝、イノシシの骨が出土しており、沖縄における先史文化の歴史を更新する発見となりました。

ガーラ矼(ばし)

ガーラばし
1995(平成7)年6月14日指定

ガーラ矼は、1928(昭和3)年の大典記念(天皇陛下即位)に、与那城尋常高等小学校へ通う饒辺集落の学童の通学路として、ガーラの山林を切り通して建設された石矼です。
それ以前は、木の橋で大雨が降ると流されてしまうという危険な状態でしたので、学童の安全を考え建設されました。石矼は高さ5m、幅2m、長さ5mの石だけで造られたアーチ型になっています。
矼の上から通行人等が通って重圧をかければかけるほど石矼がしまり、ますます堅固になっていくという矼で、近年石造建造物のすばらしさが建築研究者から見直されています。

平敷屋タキノー

平敷屋タキノー(史跡文化財)

1990(平成2)年3月26日指定

勝連平敷屋集落の南端に所在する標高70m余りの小さな丘陵です。1727年に脇地頭としてこの地に配された平敷屋朝敏は、水不足に悩む農民のためにため池を掘削し、このときに掘り出した土を盛り上げて築いたのが「平敷屋タキノー」です。
近年住宅化が進み、池も大部分が改修・縮小されました。「平敷屋タキノー公園化事業」により整備され、いくらか昔と趣を異にしましたが、勝連半島を取り巻く太平洋を眺望できる景勝地にあり、平敷屋朝敏の琉歌の歌碑もあります。御嶽やヒータチムイ(のろし台)も隣接することから、村落史研究のうえからも重要な史跡です。
平敷屋朝敏は、1700年首里金城村に生まれ、1734年に34歳の若さで安謝港において「八寸(はつつけ)」にされました。薩摩支配下における苦難の時代に、士族という身分におごることなく、農民をはじめとした弱い立場の人たちに温かい眼差しを向けることのできた沖縄近世随一の和文学者です。彼の作品には『貧家記』『手水の縁』があります。

ヤンガー

ヤンガー

1995(平成7)年6月14日指定

宮城島は自然の湧水がたくさんあることで有名です。特に上原のヤンガーは、水質がよく水量も豊富で、上原、宮城両住民の飲料水として大きく寄与してきました。
ヤンガーは、間切時代の1849年に首里の石工、大工などによって築造されたと伝えられています。泉の内部はトンネル状に石を組み、湧き口まで続いているようです。外観も石造建築の美をみごとに調和させ、今なお原形のままであることは、沖縄の石工の築造技術がいかにすぐれていたかを示すものです。
昔は、子どもが生まれるとこの清水を産湯につかったことから、「ウブガー」とも呼ばれています。現在は、毎年正月に清水(先水)を取る習わしがあります。ウビナリーといって、各門中がヤンガーを拝み、健康祈願も行っています。

嘉手苅観音堂(かでかるかんのんどう)

嘉手苅観音堂
1984(昭和59)年6月12日指定

5代伊波按司(1500年代)が金武集落に逗留していた日秀上人(にっしゅうしょうにん)に勧進して建立したお堂であると伝えられています。はじめは伊波の城下に建てられましたが2度も火災にみまわれ、現在の場所(嘉手苅集落)に移転しました。観音堂の移転を任ぜられたのが日向僧、管理を任されたのが嘉手苅のニーッチュ(門ヌ屋(ジョウヌヤー)門中)であろうと推考されています。
観音信仰は「衆生済度(しゅじょうさいど)」(命ある全てのものを苦しみや困難から救うこと)を本願としたもので、沖縄本島に最も普及した菩薩信仰です。嘉手苅観音堂は子育て観音様としても崇められ、各地から参拝者が訪れます。
嘉手苅集落では旧暦の1月7日に観音堂に田芋をお供えし、村の繁栄を祈願する年頭の行事が行われています。

大田坂(ウフタビラ)

うふたびら

2005(平成17)年2月16日指定

大田坂は今から約200年前にあかばんた掟と玉城親雲上と上門小ビニーの3者の企画で設計・施工され、地元や近隣の賦役や資材の協力を得て完成したと伝えられています。
幅員2~3m、全長300mにおよび、石灰岩を敷き詰めた石畳で、具志川集落に番所があった頃首里王府から各間切(現在の市町村)間の伝達に利用され、宿道として整備された歴史の道です。
宿道は首里城を中心とした道で、古い絵図などから沖縄内に5本の道筋をみることができます。その中の1本が、西原間切を経て宜野湾・越来・美里・金武・久志及び中城、具志川、与那城、勝連のなどに通ずるものでした。
道路の規格としては、宿道は幅8尺以上、双方に幅6尺の余地を置くこと、脇道は5尺以上、原道は3尺以上とし、管理は、各間切や村単位で行われ、その手に余るものを王府が行ったといわれています。

沖縄諮詢会(しじゅんかい)堂跡

沖縄諮詢会堂跡
2005(平成17)年3月1日指定

沖縄戦後初の政治機構「沖縄諮詢会」の施設として使用された建物です。「沖縄諮詢会」とは、終戦直後の1945(昭和20)年8月、米軍によって設置された機関で、米軍政府と県民の意思の疎通を図り、戦後の沖縄の再建について諮問する重要な役割を果たした機関です。
建物は、1932(昭和7)年に民間の住宅として建築されたものですが、諮詢会の会場として使用されたことから、戦後沖縄の自治・行政の発祥地となった重要な史跡です。
1946(昭和21)年4月、沖縄民政府の発足に伴い、沖縄諮詢会は発展的解散をしました。

シルミチュー

シルミチュー

1994(平成6)年3月31日指定

勝連比嘉集落の南南東端の森の中に大きな洞穴があり、琉球開びゃくの祖神、アマミチュー、シルミチューの居住したところと伝えられています。
毎年、年頭拝みには比嘉のノロ(祝女)が中心となって海浜から小石を1個拾ってきて、洞穴内に安置された壺に入れて拝んでいます。また、洞穴内には鍾乳石の陰石があり、子宝が授かる霊石として崇拝されています。

越來治喜(マーラン船の建造技術)

越来治喜(マーラン船の建造技術)
2005(平成17)年3月4日指定

18世紀の初めに中国福建省から船の技術が伝えられ、琉球でも船を造るようになり、改良型のマーラン(馬艦)船が生まれました。はっきりとしたマーラン船の発明年代はわかりませんが、明治・大正の時代には絵図や写真などがみつかっています。
中国福建省の泉州市には「マーラン(馬艦)」という船があります。平安座島や屋慶名の人々は、山原船を「マーラン船」と呼びます。その他にも船の機能の特徴を例えて、「カウチーブニ」「ハギマーラン」「ブンハヤー」などの名前があります。おそらく、沖縄のマーラン船は中国南部地域のジャンク(船)の影響を受けたと思われます。また、ある船の学者は、「日本の船と中国のジャンクの構造を参考にマーラン船が造られた」と説いています。
マーラン船は、舳が三角形に張り出し、肥の両脇には眼があり、真横から見ると船体が曲線をなし、2枚の帆がたてられています。それがマーラン船の特徴です。マーラン船の材料は主に松ですが、かつお漁船が沖縄で使用された時代からは、杉の材料も用いるようになりました。
積荷は、ヤンバル(国頭村)などから薪や炭などを与那原の町へ運び、帰りには日用雑貨をヤンバルヘ運びました。遠くは宮古・八重山諸島や奄美大島諸島まで交易に出かけたといわれています。

東恩納平良家所蔵の葬具及び民俗資料

東恩納平良家所蔵の葬具及び民俗資料

1981(昭和56)年10月15日指定

屋号「当(トゥ)」と称される東恩納の平良家が所蔵する「四流旗(しりゅうき)」「六地蔵の絵像」「藍型葬式幕(あいかたそうしきまく)」は同家の長男の葬儀に使用されたと伝えられる葬具です。
「四流旗」は葬列の先頭に掲げる旗です。「六地蔵の絵像」の6枚の内の2枚「白蓮」はガンの前後に垂れ掛けることによって僧侶の役割を果たすことから、僧侶の代理として地方の村で発展したものであろうとされています。「葬式幕」はワームンガチャ、タビガチャなどと称され、遺体を安置する座敷に吊すものです。

伊波金細工鍛冶道具

伊波金細工鍛冶道具 (有形民俗文化財)

1981(昭和56)年10月15日指定

伊波の屋号「金細工(カンゼークー)」家が所有するこの鍛冶道具は、王府時代に鍛冶屋を生業としていた金細工家が使用していたものです。
金細工家の発祥や当時の鍛冶屋の状況がうかがえる貴重な民俗資料として、また、沖縄の打組踊「金細工節」に登場する加那兄(カナーヒー)の遺品として認識されています。

伊波メンサー織具

伊波メンサー織具(有形民俗文化財)
1988(昭和63)年11月15日指定

伊波メンサーは伊波集落に古くから伝わる織物で、一般的には小幅の帯をさします。伊波メンサーを織る織具は、身近にある竹や木を利用して作られたものです。古来より当地に伝わる原始的なこの織具は、現在県内には類例がみられず、伊波集落にのみ残るものです。

伊波メンサーの織技能

伊波メンサーの織技能(無形文化財/工芸技術)
1988(昭和63)年11月15日指定

沖縄の織物は一般的に平織(ひらおり)と紋織(もんおり)に大別されます。有名な首里・那覇の花倉織(はなくらおり)や沖縄市知花、読谷村の花織(ハナウイ)や伊波メンサー織などは紋織に属します。
織具にセットした糸の片端を木切れに括りつけて引っ張り、織りながら前方に進んでいくイザリ織の方法と、竹串を使用して文様を織り出す技法は古い時代から伊波集落に伝わる技術です。この技術を継承する故・伊波カマドさんが初の技能保持者として認定され、1998(平成10)年に故・伊波貞子さんが追加認定されました。
2018(平成30)年には、伊波メンサー織の保存と継承を目的とした「伊波メンサー織保存会」が伊波区で結成され、2019(平成31)年に技能保持者として大重泰江さん、山城初美さん、比嘉悦子さん、伊波由美子さんの4人が追加認定され、同時に技能保持団体として同保存会も追加認定を受けました。

南風原の村獅子

南風原の村獅子(有形民俗文化財)

1990(平成2)年3月26日指定

ウスクの木の根元におかれ、サンゴ石灰岩を加工して作られた高さ約50cmほどの素朴な獅子像です。村のフーチゲーシ(邪気払い)として、南風原村が勝連城跡南側の元島原より現在の地に移動した際(1729年)、村の境界として東西南北の四角に置かれたと伝えられています。
今では北側と西側が残っているだけですが、集落の研究や民俗資料として貴重です。

伊波ヌール墓

伊波ヌール墓(有形民俗文化財)墓
1994(平成6)年3月4日指定

村の祭祀行事を司った歴代の伊波ヌールが葬られていると伝えられています。
1994(平成6)年に実施された墓の調査で、琉球石灰岩の家形厨子甕(いえがたずしがめ)、マンガン掛厨子甕、転用厨子甕(生活雑器)などが検出され、甕の中にはそれぞれ2体分の骨が納骨されているのが確認されました。厨子甕には銘書(ミガチ)はなく被葬者については不明です。
墓の形式は琉球石灰岩を掘り込んだ堀込墓で、築造年代はおよそ300年前であろうと推定されています。

三線真壁型(大型)

三線真壁型(大型)
1994(平成6)年3月4日指定

全長76.7cm
本器は、リュウキュウコクタンの上質材の中でも最高級品で、音面の弦の打ち跡が平均に打たれており、音階に狂いがありません。
漆は上塗りが赤みがかっており、経年変化によるものとみられ、かなり古く、明治前期頃の作です。「心」は、四つ角が取られたやや八角型で、佐久川(サクヌカー)与那型であり、透明の漆塗りが施されています。「面」や「爪」の形状は真壁型で、「野」はやや真壁型です。範穴は、一、三弦の間が狭く、与那型に類似します。爪裏のノミ跡は角ノミの総荒取りで、猿尾に牛骨の足しがあります。
製作段階において、材質上の何らかの理由で左側の天橋と糸蔵がピン止めで継がれており、当時の高度な製作技術がうかがえる貴重な三線です。

三線平仲知念型(大型)

三線平仲知念型(大型)
1994(平成6)年3月4日指定

全長78.5cm
尚益王代の1710年~1712年頃の名工、知念大工の三線として『琉球三線宝鑑』に記されています。
『球陽』によると、尚泰王(在位1848年~1879年)の時代に「美里郡東恩納村の島袋筑登之親雲上の善行を褒嘉して爵位並びに物件を賜う。爵位勢頭座敷。物件白木綿二反」とあります。そのほかにも陣羽織や葬具の四流旗、六地蔵などが同家に伝わっており、その際に、この三線も賜ったと考えられています。
材質はリュウキュウコクタン、「心」に銘記があったと思われますが削り取られています。「面」「野」「爪」「心」の形状とも平仲知念型で、爪裏のノミ跡は角ノミの荒取りで、天裏にピン跡があります。平仲知念型にしては天及び鳩胸の線(筋)は際だってなく、手でふれるとわずかに感じられます。
漆塗りはわりと新しく、塗り替えがあったと思われますが、爪裏の漆と糸蔵の金箔の色はかなり古く、伝承のとおり王府時代の三線の可能性が高いと思われます。

三線鴨口与那型

三線鴨口与那方
1994(平成6)年3月4日指定

全長78.1cm
本器の「心」は、赤みのはいったリュウキュウコクタンの上質材で、「うじらみー」(ウズラ模様)らしく見えるのは漆の濃淡によるもので、丹念に形成されており、透明の漆が塗られています。糸蔵と心部に相当古い漆塗りが残っており、明治前期頃の作です。
「天」の形状は丸みは少ないですが、「爪」の形状はきれいな鴨口与那型です。「面」「野」「心」の形状はいずれも与那型に類似した形状です。爪裏のノミ跡は平取りで滑らかであり、糸蔵が長く、猿尾に牛骨の足しがあります。県内でも数少ない鴨口与那型の三線です。

地頭代火の神

地頭代火の神

1994(平成6)年3月31日指定

勝連浜公民館敷地内に、コンクリート製の小祠があり、その中に火の神の依代として3個の霊石を祀った拝所です。
琉球王府時代、浜集落には地頭代のおえか地(役地)があり、地頭代となるためにはまず浜地頭を務めなければならなかったといわれています。「地頭代火の神」が奉安されたのはこのためとされ、貴重な歴史・民俗文化財です。
現在、小祠には『琉球国由来記』に記されている「殿(浜里主所)」と合祀されています。今日でも、立身出世の神として、進学、旅立ちに際し祈願する習わしとなっています。

アマミチューの墓

アマミチューの墓

1994(平成6)年3月31日指定

勝連比嘉集落の東方海岸に「アマンジ」と呼ばれる岩屋の小島があり、そこに洞穴を囲い込んだ墓があります。地元では琉球開びゃく伝説で有名なアマミチュー、シルミチューの男女二神及び他の神が祀られていると伝えられています。
毎年、年頭拝みには比嘉のノロ(祝女)が中心となって島の人々多数が参加して豊穣・無病息災・子孫繁栄を祈願しています。

犬名河(インナガー)

犬名河(インナガー)
1995(平成7年)6月14日指定

犬名河は、伊計島の北西の海岸沿いの崖下にあります。島は昔から水不足で悩んでいました。干ばつに困っていた時、ずぶぬれになった犬が崖下から上がって来たのを見た農夫が不思議に思い、下りて行ってみると、こんこんと水が湧き出ている泉がありました。それで「犬名河(インナガー)」と呼ばれるようになったといわれています。
その後、伊計島の人たちは飲み水に困ることはなくなりましたが、150段ほどの石段の坂道を上がり下りしての水汲みは重労働でした。戦後はポンプで吸い上げて、米軍との共同使用をしていましたが、現在は本島から上水道がひかれ水に悩むこともなくなりました。

宮城御殿(ナーグスクウドゥン)

宮城御殿(ナーグスクウドゥン)
1995(平成7)年6月14日指定

通称「カミヤグヮー」と呼ばれていますが、「観音堂」ともいわれています。
昔、泊城のトゥマイ浜に大木が寄ってくることを知った村人が、総出で大木を引き上げようとしましたが、動きませんでした。喜屋原神女は、「神女の仲泊ハーメーが音頭をとらないと動かない」と言いました。そこで、仲泊ハーメーが大木にのって音頭をとると、不思議にも簡単に陸へ上げることかできました。
この大木で現在地に神殿を造り、宮城住民の守護神として信仰してきました。特に幼児の健康・発育にご利益があるとされ、旧1月3曰には、初越こし行事で住民が集まり、三線を奏で、踊ったりして、健康祈願をしています。また、旧1月18日には「ウクヮンニンウガミ」といって、島内外から参拝者が訪れます。
神殿は、1962(昭和37)年にコンクリート造りに改築されました。一説には北山系の按司を祀っているともいわれています。

与佐次川(ユサチガー)

与佐次川(ユサチガー)
1995(平成7)年6月14日指定

現在のユサチガーは、1736年~1799年のいずれかの年に建造されたと推察されています。それ以前の井泉は、現在地より上のほうにあったようです。
このユサチガーを平安座島では、産井ガー(ウブイガー)とも呼び、子どもが誕生した際には、初水として汲んできました。また正月3日には、門中一族がユサチガーに集まり子孫繁栄、無病息災を聖泉に祈願する「ウビナディー」は、由緒ある伝統行事として平安座島の人々の心のよりどころとなり代々続いています。

平安座西グスク

平安座西グスク

1995(平成7)年6月14日指定

平安座集落の後方、島のほぼ中央部に位置し、島で最も高い所(標高115m余)の琉球石炭岩上にあり、南西側は断崖となっています。野面石積みの石垣がめぐらされ、面積は約30,000平方メートルです。
築城年代は不明ですが、一説には勝連城城主の浜川按司の次男、高花按司の居城と伝えられていますが定かではありません。グスク内には祠があり、地域の重要な拝所となっています。
『琉球国由来記』の「平安座村にある森城」はこのグスクであり、神名「島添大神之御イベ」が鎮座しています。年に4回、旧暦3月、6月、9月、12月にノロや神人がグスクに登り、島の安泰を祈願する行事「御嶽廻り」が続いており、「平安座の森城」として神域となっています。

クボウグスクの植物群落

クボウグスクの植物群落
1997(平成9)年4月23日指定

クボウグスクは、津堅島西海岸の海に突き出た琉球石灰岩の上に築かれており、周辺からは、14~15世紀の輸入陶磁器が採集されています。
グスク一帯は拝所として古くから崇められ、保護されています。また、琉球列島の代表的な低地型森林で、小さな島に残る貴重な自然林です。

中の御嶽

中の御嶽(なかのうたき)
1997(平成9)年4月23日指定

中の御嶽は、津堅島の西方トゥマイ浜の中央部に位置し、国森・クボウ・ヒガルと合わせたの四御嶽のひとつで、古くから拝所として保護され、現在も崇拝されています。
この御嶽には、「喜舎場子」の墓があります。喜舎場子は『遺老伝説』や島の口碑によると、中城郡喜舎場村の喜舎場子が島にたどり着き、ムラ立てをし、人々の日常生活の指導などを行い、豊かなムラづくりに貢献したと伝えられています。
ムラの人々は、喜舎場子を深く崇拝し、敬慕し、墓の所在する中の御嶽を津堅島の祖神として祀っています。

ヤマトゥンチュウ墓

ヤマトゥンチュ墓
1997(平成9)年4月23日指定

ヤマトゥンチュウ墓は、1839(天保10)年に水戸藩船が漂着した歴史を伝えるものです。
水戸藩廻船漂着文書には、救助された水戸領の周蔵と仙台領の宇(夘)太郎は、無事帰国することができ、救助前に死亡した南部領の五助(18歳)、源助(50歳)、亀松(31歳)、仙台領の吉蔵(30歳)、仲蔵(47歳)の5人をこの地に葬ったと伝えられています。
以前は、アダンの繁った浜の砂丘にありましたが、1986(昭和61)年~1991(平成3)年の浜~比嘉間の海岸線道路建設の際、現在地に移動しました。市内に唯一現存する漂流者墓碑であり、浜比嘉島の人々の博愛精神を表すものです。

南風原の獅子舞

南風原の獅子舞
1999(平成11)年3月10日指定

南風原集落の獅子舞は、1726年に勝連間切地頭代、前浜親雲上(カッチンバーマー)という優れた指導者が首里王府から集落移動の許可を取り付け、勝連城の南側傾斜地から現在地に村を移動した頃からムンヌキ(魔除け)として舞われてきた民俗芸能です。
当初、定まった型はなく三線にあわせて舞うだけでしたが、1917(大正6)年に旧具志川市田場の上殿内の指導を受け、現在の型が形成されました。
舞い始めは、まずワクヤー(おびきだし手)が獅子を挑発しながら入場し、獅子を誘い出したワクヤーはすぐさま退場します。獅子は、魔物と思っているワクヤーを取り逃がした不満を爆発させ、激しく舞い狂った後、退場します。

平安名のウムイ・クェーナ

平安名のウムイ・クェナー
1999(平成11)年3月10日指定

平安名集落のウムイ・クェーナは、旧正月3日の年頭祈願、7年ごとの神元拝みなど、パーパーターシンカやノロ、神人達によって謡い継がれた古謡です。それらの古謡は、36曲にものぼり、現在では、パーパーターシンカ十数名で謡われています。
節入りは、決して単調なものではなく、古典芸能の大筋にも匹敵するような複雑な節が入っています。このように、平安名集落には他地域では謡われることの少なくなった数多くの古謡がパーパーターシンカによって村の祭祀・生活の中でしっかり伝承され、貴重です。

平敷屋エイサー

平敷屋エイサー

1999(平成11)年3月10日指定

平敷屋エイサーは、旧暦7月15・16日に祖霊を供養する盆踊りです。起源は定かではありませんが、1903(明治36)年頃までは、平敷屋独自のごく素朴なものであったといわれています。
現在の念仏形式の加わった盆踊りは、1904(明治37)年、県内で評判だった名護市世富慶エイサーを当時の青年会長が、名護に出向いて習い、会員に教えたのが始まりで、それを基に独自の型を確立しました。
ジユーテー(地謡)、ハントゥー(酒がめ)持ち、太鼓打ち、踊り手、中わち(世話役)で構成され、白と黒で統一された衣装(紺地)を身にまとい、太鼓打ちは、裸足で踊るなどエイサーの古式をとどめた独特なものです。

天願獅子舞

天願獅子舞
1999(平成11)年7月15日指定

天願獅子舞は、首里城下で御殿奉公をしていた若者が、中国からの冊封使歓待の御冠船踊りの獅子舞を見て魅了され、その演技を習得して郷里へ持ち返ったところ、天願の長老に頼まれ伝授したのが始りといわれています。
戦後3年間(戦災で獅子焼失)の一時期を除いては、現在に至るまで保存会を中心に保存・継承を行っています。
舞い型は獅子舞の前に古来より伝わる「天願棒(でんぐわんぼう)」の棒術で露払いを行い、カリーをつけた後、ワクヤーの童子が踊って獅子を誘いだします。獅子はワクヤーを追って飛び出し、激しく身を震わせて舞いはじめ、右左に寝返りをうった後、ワクヤーが落とした毬と総(みな)とを結んだひもを口にくわえて仁王立になり、一回りする技は、威風堂々として、あたりを圧します。音曲にのせて約十種の技を演じた後、静かに振り返りつつ、未練たっぶりに退場していく獅子の表情と姿が観衆をひきつけます。
毎年旧暦の7月16日に天願太郎治の神殿前と祝女殿内の神殿前で踊ります。

田場ティンベー

田場ティンベー
1999(平成11)年7月15日指定

ティンベーとは、ショージ(諸芸)と称される古武術です。いつごろ田場集落に伝わったか定かではありません。現在、ティンベーの手、ナギナタの手、エークの手などが継承されています。
カサとサク小を持った者とヤリを持った者との闘い(ティンベーの手)、ナギナタとヤリとの対戦(ナギナタの手)、覆面をした忍びの者同士でエークとトゥザとの戦い(エークの手)など、いずれも敏しょうな動きのなかで勇壮活発にくりひろげられます。
毎年旧8月15日に獅子舞と一緒に祝女殿内に奉納されます。

吉本家

相方積みの石垣
2000(平成12)年11月7日指定

吉本家の主家は、明治末頃、チャーギ(イヌマキ)を使用して建てられた貫木屋形式の本瓦葺きの平屋でした。屋敷構えは、琉球石灰岩を用い、各石の形を互いにかみ合うように切り合わせて積んだ、相方積みの石垣で囲い、門を入ると正面に石造りのヒンプン(外部からの目隠し、家の厄除け)が築かれていました。
主屋は敷地のほぼ中央に配し、北西側には、フール(豚小屋をかねた便所)、南側には自然の岩を利用した石庭がありました。主屋の裏側には、アタイ(敷地内にある野菜畑)があり、台所や裏座を造築していますが、全体的によく保存され、沖縄の地方に残る、伝統的な建築様式を色濃く残していました。
2010(平成22)年4月に焼失、現在は石垣だけが残っています。

兼箇段ジョーミーチャー墓(兼箇段ウテー)

兼箇段ジョーミーチャー墓(兼箇段ウテー)
2005(平成17)年2月16日指定

この墓はいつ頃築造されたか明らかではありません。墓の構造は、山の中腹から下にかけて削り落として横穴式にくり抜いたもので、架橋の下に大小3つの小さな前門があります。
この墓には「兼箇段大主」「テビーシ」「根人」「ヰガン」「根神」「祝女」「アジガユー」「門ミーチャーカシラユー」「ナカヌユー」などの遺骨が崇められているとのことです。
兼箇段集落ではこれらの霊を慰めるため、1963(昭和38)年旧5月に墓の蓋石を新調して、ここに祀る個人の名を刻記し、後世に伝えるとともに、外観を整備して現状の維持につとめています。
往事、道行く人々にとっては「恐怖の場」として知られていた所でもあり、浦添ようどれ、勝連城跡北側の南風原から西原を結ぶ坂道ウガンタナカと相並ぶほどに道行く人々に恐いところとして知られていました。
戦前まで具志川集落の多くの人々は、燃料用の薪採りには必ずこの前を通ったようです。馬にまたがり、芋籠(シーブ)に鞍をぶら下げ、2、3人あるいは4、5人連れで歌を歌いながら、このウテーの前から沖縄市池原を経て、石川の楚南、山城の山間集落で芋と交換し、馬の背一杯に薪(ワラビの葉や雑木)を刈り取って帰路についたようです。

田場ガー

田場ガー
2005(平成17)年2月16日指定

田場ガーは別名「ウブガー」とも呼ばれ、古くから地域で正月の若水、子どもが生まれた際のカーウリー・産水、生活・農業用水などに利用されてきました。
造りは、湧き口を囲んだ2つの池と水神を祀った祠、池の水貯めをするマグサ、歩き道の石敷、2箇所の降り口、洗濯場、シッティがあります。
石積みの技法は、正面を相方積みでその上部を野面積み、左右を切石積みで造られています。
1999(平成11)年に正面上部が一部崩壊しましたが、住民はじめ関係者の努力により2004(平成16)年に修復されました。現在も田場集落の行事として旧暦正月にカー拝みが執り行われています。

東恩納博物館跡

東恩納博物館跡
2005(平成17)年3月1日指定

東恩納博物館は、米軍人・軍属に沖縄の文化・民俗を理解させることを目的として、当時の米軍政府教育担当のハンナ少佐が焼け跡から蒐集した戦前の陶器、彫刻、織物、漆器などを展示し、1945(昭和20)年8月、東恩納に開設されました。
当初は「東恩納陳列館」という名称でしたが、1946(昭和21)年4月、同じく東恩納に設立された沖縄民政府の発足に伴い「東恩納博物館」と改名されました。1953(昭和28)年、首里郷土博物館と統合されて「首里博物館」となり、これが現在の沖縄県立博物館の母体となっています。
博物館の建物は、米軍政府のコンセットが建ちならぶ中に、戦災にあわずに残っていた瓦葺きの家屋を修理し、その並びにもう一軒増築して使用していました。屋敷は粟石で囲い、その一角に池を掘り、日本風の庭を造ったといわれています。

石川部落事務所

石川部落事務所
2005(平成17)年3月1日指定

1932(昭和7)年頃建築されたといわれています。沖縄戦前は、石川部落(集落)の集まり、年間行事、お祝い、また幼稚園などにも使用されました。
1945(昭和20)年、多くの人が石川に集められ、収容所ができました。同年9月には、美里村(現在の沖縄市の一部)から分離して「石川市」が誕生し、戦争で焼け残った「石川部落事務所」を市役所として5年間使用しました。現在でも石川部落会の年中行事などに利用されています。

宮城ナーグスクウシデーク

宮城ウシデーク(なーぐすくうしでーく)
2005(平成17)年3月4日指定

ウシデークとは、沖縄本島とその周辺の離島に伝わる民俗芸能で、婦人たちだけで踊られる円陣舞踊です。
宮城集落では、約180年前から伝わるとされています。宮城のウシデークは、旧暦の8月15日に行われる「ジシチ」という行事で踊られます。
宮城集落内にある名城家(根屋)、宮城御殿(神屋)、スンチナー、フクイジムイ(共同売店前)の各場所を巡り踊ります。
宮城ウシデーク保存会は、ウシデークを保存継承するために1995(平成7)年1月に結成され、ジシチの行事などほか、記録や映像保存などに取り組んでいます。

新川・クボウグスク周辺陣地壕群

新川・クボウグスク周辺陣地壕群
2004(平成16)年3月3日指定

新川・クボウグスク周辺の陣地壕群は、津堅島の最南端に位置する新川グスクやクボウグスク(御嶽)が立地する岩山を利用して構築されています。
戦前、津堅島は中城湾要塞建設において軍事上の要塞として早くから重視され、1941(昭和16)年頃から中城湾要塞砲兵隊第一中隊が配備され、島の中央部を中心に重砲陣地が築かれました。
なかでも最高所36m(通称三六陣地)の新川グスクは2段になった自然の洞窟があり、この洞窟を中心に地下壕を掘り加え津堅島守備隊の本部壕としました。この本部壕を取り巻くように、野砲陣地、カノン(加農)砲陣地、歩兵小隊主力陣地、機関銃陣地、対戦車壕などが築かれました。
太平洋戦争で旧勝連町内唯一の激戦地となった津堅島の陣地壕群は、現在でも、戦の歴史と軍事上の要塞などを知るうえで貴重な戦争遺跡です。

お問い合わせ先

教育委員会 社会教育部文化財課

沖縄県うるま市みどり町一丁目1番1号うるま市役所 西棟3階

電話番号:098-923-7182

ファクス番号:098-923-7674

より良いウェブサイトにするためにみなさまのご意見をお聞かせください

このページの情報は役に立ちましたか?

このページの情報は見つけやすかったですか?